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語学は不要になる?

2016.09.30日

昨日、NHK NEWS WEB の「語学は不要になる?自動翻訳最前線」という記事が目に留まりました。私の専門とする言語学の分野です。


「考え得ることは...」という7年前の記事の中に書いた、私がアメリカに留学していた40年余り前の自動翻訳の力量は次のようなものでした。
“It’s one thirty.”  「それは1と30だ」 (「1時30分です」)
“Time flies like an arrow.”  「時ハエは矢が好きだ」 (「光陰矢のごとし」)


今、手元にある1973年発行の『概説言語学』(ノウエル・ミニス編 三省堂)の VI「言語学と文学」(ジョージ・スタイナー著)の章には次のようにあります。
「たとえ最も複雑なコンピューターであろうとも、人間の言語行使能力と実際的言語運用とにたいして真の光をあてるには、あまりにも甚だしく初歩的であり、あまりにも甚だしく図式的である。とりわけ意味と含蓄の決定にかんしては、人間の脳のなかの10の14乗の電気化学細胞と神経細胞接合点が一挙に作動するのであって、そのさいの速度・そのさいの精妙な選択の水準たるや、機械的計算などは、まったく及ぶべくもないと、わたしは思うのである。またわたしは、機械翻訳の潜在能力についても、懐疑的である。この点にかんしては、広範な混乱がみられる。特定の巨大な語彙集ならば、たしかにつくることはできる。この種の語彙集なら、たしかに、化学や高額の文献を翻訳するという労多い過程を劇的にスピード・アップできるかもしれない。しかし、このような電気仕掛けの語彙集などは、どれほど洗練されようとも、たかだか超辞書にすぎず、人間の行う翻訳の手引きになるものにすぎない。こういうものは、一群の通常原語の素材を対応する一群の言語に、いかなる真の意味においても、翻訳などできるものではない」(同上p.168-169) 
この訳文自体がまるで機械翻訳したような感じです(笑)


AN INTRODUCTION TO HISTORICAL AND COMPARATIVE LINGUISTICS (Raimo Antilla, MacMillan, 1970) p.370 、An Introduction to Descriptive Linguistics (H.A.Gleason, Holt Rinehart Winston, 1961) p.205-207 にも機械翻訳について同様の懐疑的な見解が述べられています。


当然のことです。今から40〜50年前には絵を描いたり、小説を書いたりするAI(人工知能)など想像もつかなかったからです。
しかし、今や2020年の東京オリンピックを目標に、スマホで使える自動翻訳の実用化を目指しているというのです。
そのアプリはこんな感じです。


translator.jpg


「難解な日本語もスラスラ翻訳」と書かれていますが、こんなのはAIの力を借りずともいとも簡単に翻訳できます。語彙も文法も非常に単純だからです。
本当に難しいのは、主語がなかったり、主語と述語が一致していない、次のような日本語特有の非文法的な文章です。
「二人が向かった先は地元で有名なスーパーに足を踏み入れた」
(『リアル鬼ごっこ』(文芸社)  p.137)
日本人ならごく普通に日常使っている文で、私たちは暗黙の了解で理解していますが、このような非論理的な文章は機械には理解不能です。


今回の記事を書いた記者は結論として次のように書いています。
「ただ、食べればあらゆる言語を自動翻訳してくれるドラえもんの“ほんやくコンニャク”のような、ひみつ道具の域に達するのはまだまだ先になりそうです。語学をしっかりと学び直そうと決意を新たにした取材になりました」


そう、今年の春「ほんやくコンニャク」にも書いたとおり、語学はやっぱり勉強しなければならないのです。たとえ機械翻訳ができるようになったとしても。


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