学院長元気の出るブログ

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群盲象を撫でる

2014.11.16日

何人かの盲人を象のところへ連れて行き、一人には象の足を触らせ、別の一人には尻尾を、また別の一人には鼻を、あるいは耳を、牙を、わき腹をというふうに、それぞれ別の部分を触らせます。その後象とはどんなものだったか描写してもらいました。
すると、ある人は「象とはひものような細長くて、絶えず動くものだ」、また別の人は「いや違う。象とは太い木のようなものだ」、また別の人は「いや、大きなうちわのようなものでひらひらしていて風を送ってくれる」、「いや、長いホースのようなものだ」、「いや、大きな壁のようなものだ」、「いや、みんな違う。象とは先がとがっていて湾曲した固い長い棒のようなものだ」と答えた、という話。
これが有名な諺(ことわざ)にもなっている「群盲象を撫でる」(もしくは「群盲象を評す」)です。
つまり、同じものを触っていても、みんな体験することが違うので、違う描写になっているけれども、実際には「象」という同じものを触っているのだ、ということです。


この諺を引いて、宗教も同じようなものだ。キリスト教も、イスラム教も、仏教も、その他の宗教もみんな同じ神を目指しているけれども、違う観点から見ているので違う表現で神を言い表している、と。
とくにこのような考え方は日本人には受けます。あまり相手とぶつかるような真っ向勝負は好まず、みんなと仲良くやっていこうではないか、というわけです。
ですから、日本の家にはよく同じ部屋に仏壇と神棚があって、両方に向かって手を合わせ拝んでも何の違和感もないし、またお寺にも神社にもお参りに行きます。私の両親も私もかつてはそうでした。
ですから、神に至る道、救われる道はただひとつ、イエス・キリストを信じるだけだ、とクリスチャンが言うと心が狭いとか、他の宗教に対して寛容的でないとか言われます。


この他にも一休禅師が詠んだといわれる似たような次の歌もあります。
「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」
このような考え方は日本人には確かに受け入れやすいですよね。


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しかし、よく考えてみると、上の群盲の話は象を神と比べているところに、同様に下の歌でも月と神を比較しているところに問題があります。
つまり、どの宗教を信じる人々も同じ神を体験しているのだと最初からそう思い込んでいますが、実際にはみんなそれぞれ異なった神を信じているのです。
ですからキリスト教とイスラム教が同時に正しいということはあり得ませんし、また仏教とイスラム教が、仏教とキリスト教が同じことを教えている、ということは絶対にないのです。みんな神概念も教えも違います。
ということは、可能性としては、どの宗教もみんな間違っているか、あるいはこれら世界に存在する数多くの宗教の中でどれかひとつだけが正しいかのどちらかになります。


宇宙、万物の創造主なる神様ご自身がイエス・キリストという人となってこの世に来られ、私たちの罪の罰を身代わりとなって十字架の上で受け、そのことによって神との和解の道を開いてくださった。これを信じる者のみが救いを得、天の神様のみもとに行くことができるというのが聖書の中に記されたキリスト教の教えです。
イスラム教にも、仏教にも、ヒンドゥー教など他の宗教にはこのようなイエス・キリストによる救いの教えはなく、みんなそれぞれ異なった教えを持っています。
ですから非常に単純な三段論法でいっても、みんな間違っているか、あるいはひとつだけが正しいかのいずれかになる、というわけです。
真理を求めるとき、寛容的であるかないかということが問題になるのではありません。どれが正しいか、そしてどれを信じるか、あるいはどれも信じないかのいずれかになるのです。


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